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【研修医】メーコン黒部医療交流

小宮良輔医師


平成17年10月2日-平成17年10月30日

英語

テレビドラマのERシリーズと同じくらいの速さで会話が進むこと、それぞれ南部なり黒人なりのアクセントがあること、薬剤の商品名は違うものが多く日本未発売の薬や剤形もあること、専門用語の英語のさらに院内のみ通用するような略語があることを考えると、内容理解へのハードルは高い。渡米前にできるだけ英会語などで話す機会を作ること、ERのDVDを繰り返し見て、理想をいえばセリフを字幕で出して、発語の後を追って話すシャドーイングをして口が動くようにすること、パームなどの携帯端末にステッドマン医学辞典を入れて参照すること、薬はみんな持っている現地の本(Tarascon Pocket Pharmacopia)を参照すること、症例提示のパターンは医学英語の本(Medical English for Overseas Doctors)や横須賀海軍病院の症例提示法のプリントで慣れておくことが必要である。

衣服

救急センターでは手術着のような青い衣服に白衣を羽織っている姿がほとんどであった。逆に病棟では男性内科医師は白衣の中はネクタイを着用していた。また看護師や事務スタッフはカラフルな服を家から着てきているようであった。日本のケーシーを着ている人はいなかった。そのためスラックス、なるべく形状記憶のシャツ、ネクタイを持参し、コットンのシャツは宿泊先のコインランドリーや備え付けのアイロンを使用して寝る前に翌日の準備をした。

宿泊・食事

メーコン市中心から車で15分ほどのインターを降りたところにある長期滞在可能なホテル(Residence Inn)を使用した。現地の研修医に聞くと実習で数週間滞在したときに利用したとのことで地元の人に知られた存在のようだ。滞在先では毎朝典型的なアメリカの朝食が提供され、またコーヒーは24時間提供で、朝はコーヒーコップにふたをして持ったまま車で出勤することも多かった。昼は病院の食堂でサンドイッチやサラダを選んで食べた。昼はカフェテリア方式だが、ただ指差して注文すると大盛りになってくるので注意が必要だ。病院スタッフは食べる量に気を使っている人もいて、研修医の昼のレクチャーで特大ピザを食べている人は自分だけだった。夜は滞在先周辺のショッピングセンターにある大型スーパーで買い置きしてたものを温めて食べたり、レストランで外食したりした。また現地の研修医と外食したり、来黒された米国人指導医の家に招待され、お邪魔することもしばしばあった。宿泊先にはジャグジーがあり、疲れたときは中に入って本を読んでいるとそのままうとうとしてしまうこともあった。また郵便物、ファックス、留守電、空港へのシャトルバスの案内、待合わせなど何かにつけてフロントスタッフは親切に対応してくれた。室内で調理することも可能で、ナベ、包丁、まな板、食器、冷蔵庫、電子レンジは備え付け、流し口には生ごみ粉砕器、食器洗い機もあった。日中にサービス不用の張り紙をしていないときはルームサービスにより食器洗い、ごみ捨てなどしてくれたが、毎回チップを置いていく難しさを感じた。

移動

基本的に公共交通機関、タクシーとも頼りがたいため、渡米前に国際免許証を取り、滞在中はレンタカーを借り、道路地図を購入して移動した。宿泊先から病院まで毎朝晩通勤に利用しただけでなく、夜や週末に外食や買い物、空港までの出迎え、遠出の際には重宝した。車を借りて最初は駐車場で左ハンドル車の練習をした。保険は高いがすべてかけた。ガソリンもカードでセルフサービスで入れられるが、治安の問題で夜間には給油も含め車外に出ることはなるべく控えた。

連絡手段

宿泊先にてインターネットが使用できたため、日本との連絡は主にメールで行い、必要なら携帯電話を使用した。また現地では公衆電話は限られており、日本から持参した携帯電話が便利であった。ただし高額の電話代を恐れ、現地の人々が携帯に直接かけることは一度もなく、2日目に渡されたポケベルか、宿泊先の部屋の留守番電話に連絡をいただくことが多かった。ポケベルは数字のみの表示であり、普段携帯電話に慣れていると、相手が分からない電話番号にかけなおすのは大きな負担であった。帰国すると携帯電話利用は普段より多くないはずなのに料金は4、5倍になっていた。

研修

一般内科病棟、救急センター、緩和ケア部門と計4週間見学、研修させていただいた。その他外傷初期対応のコースを体験する機会があった。

内科研修では朝7時頃から病棟に出ていた。前日までにオーダーすると、当日早朝5時頃に採血スタッフが来て、7:30頃には結果が出ているという。それを元に今後の方針を検査なり退院なり考え、指導医とディスカッションしていた。9時頃から指導医との回診、11時頃には症例の中からテーマを決め、ある疾患についての診断や治療について知識の確認をする教育時間、曜日によっては昼食をとりながら講義、午後は外来や検査結果確認、処置を行っていた。これらの診療行為は2年目研修医1-2人、1年目2人、学生数人と指導医1人のチームで行われており、このようなチームが3つと病棟診療専任の医師団チーム1つの体制となっていた。これらのチームで日替わりで、救急センターから一般内科入院となった患者様の担当となっていた。つまり4日に1回担当患者様の数が増え、残りの3日間で入院中に病状を安定化させ、短期間で必要な検査を行い、方針を決定していた。そして治療も可能なものは退院後外来にて継続したり、フォローできるような専門外来、患者教育体制や訪問看護体制ができていた。逆に3日間で退院とならないと次の当番日となるたびに入院患者数が増加してしまう仕組みになっていた。これらのチームの診療行為に同行していると実感したが、指導医が実際にいるのは午前中の回診時のみであり、その他は入退院、大きな治療方針の確認などはポケベルを呼び出し、電話コンサルトの上で、病棟での実際の対応は2、3年目研修医が行っていた。指導医は内科であれば午後は自分の専門外来を行っているそうだ。研修医は1-3年各8人いて、1ヶ月単位で一般内科チーム、ICU、救急、外来、循環器など専門分野コンサルトなどローテートしていた。学年が上がるごとにチームのリーダーとして具体的な方針決定や後輩の指導が義務付けられ、2、3年目になると1人で外来運営やコードブルーの対応など責任がまかされていた。一方、月初めになると互いにローテート先や指導医の情報交換をしたり、研修終了後の進路について話し合ったりと日本と似た一面もあった。
救急センターでは、救急車の同乗実習があり、my truckと呼ばれていた救急車とスタッフ2人、うち救命士が最低1人いるところに、3人目として同行した。バーガーキングで食事を取り、市内の詰め所で待機し、連絡が入ると出動した。交通事故では現場、急病では患者様の自宅に実際に入り、暮らしぶりが垣間見える場面もあった。また救急センターでは学生、研修医などそれぞれローテート中に日勤、準夜などシフトを何回と総数が決まっていて、具体的なスケジュールはお互いに調整し提出していた。実際には患者様が多い昼12時からや午後4時からのシフトが多く、夜は遅くても2時くらいまでとなっていた。その中で歩いて受診した患者様はまずトリアージナースの診察後、早期診療部門(Fast-track、一次救急)担当の家庭医か、救急センター(二次救急以上)に振り分けられていた。主に救急車来院の患者様は救命士からの無線で事務に連絡が入り救急センターの診察室割り当てが決まり、三次救急など状況によっては無線で直接救命士と救急医がディスカッションする場合もあった。逆にセンター到着後も状態が安定している二次救急患者様の場合、診察室が埋まってしまうと空くまで搬入廊下で行列待ちとなる場合もあった。診察室に入った後は、学生や研修医が初診後、どの時間帯でも常駐している救急専門医が2人と胸痛センターの1人とディスカッションし、方針決定していた。一方、状態が安定していて軽症な傾向の二次救急患者様の場合、診療看護師、医師助手など中間職種のスタッフが初診から検査、治療まで行い、帰宅前までに処方など救急医とコンサルトしていた。その他、初診時には事務スタッフ、看護師が急変時の蘇生治療の意向確認を必ず行い、入院時には必ずかかりつけ医に連絡が入り、原則オープンベッド入院となっていた。

また、胸部不快感を訴える患者様は歩行でも救急車でも全員胸痛センターに入るか、そこの11床が満床となると救急センターに入っていた。病状に応じて4種類のクリニカルパスに分類され、すぐ血栓溶解療法から心疾患以外の可能性がある場合のパスが用意されていた。特に経過観察する場合は、来院時、3、6時間後と心電図、心筋逸脱酵素など3セット再検し、モニター管理を行っていた。特に救急車収容時にはっきりした症状がある患者様は車内で12誘導心電図をとり伝送し、センターでは心カテ担当医に連絡し、心カテによる血流再開までのドアツーニードル時間の短縮達成を品質管理目標に掲げていた。

一方、外傷患者様は例えば銃創やショック状態なら来院時に対応チーム待機または放送呼び出し(trauma code)、打撲傷でも救急医診察後に気になる場合は連絡(trauma consult)など基準が決められており、一般外科兼外傷外科チームが日替わりで対応していた。

いずれも看護師、医師、技師にとどまらず様々な職種のスタッフが多くいて運営されていた。その他、学生や研修医は初診を行う以外に週2回講義があり、ローテート終了時には面接や筆記試験があるという。しかし学生に聞くとちょうど今研修先の面接シーズンであり、その準備の方が大変な時期とのこと、また救急医の評判などの情報交換が進んだ結果、救急センターに学生があふれる時期と誰もいない時間帯が見られた。
緩和ケア部門では特に救急センターやICUにて根治的治療が困難、疼痛管理が必要な患者様が対象となっていた。急変時の蘇生治療の対応の意向再確認、家族内対立など、患者様ご本人、ご家族、スタッフによる依頼で、カウンセラーが関わる場合と、主治医からコンサルトとなる場合と2通り対応窓口が準備されていた。カウンセラーは患者様、ご家族、スタッフの話を聞きつつ緩和ケアコンサルトが必要かの判断も行っていた。コンサルトとなると専門教育を受けた認定看護師や診療看護師、医師助手が実際に病室を訪問し、必要な指示の追加や変更、場合によっては緩和ケア病床に転棟を行っていた。医師は指導監督的な立場で朝の申し送りに出席したり電話での確認にて必要なら対応してくれるとのことだった。内科や家庭医からローテートできた研修医や学生は実際のコンサルト業務に同行し、月曜日のICU回診に参席し意見交換するのをみたり、指示の方法を学んだり、緩和ケア部門にかかわった全患者様の情報交換・申し送りに毎朝出席していた。特に疼痛緩和の方法として麻薬の使い方や症状緩和のための薬剤の使用法の習得が大きな学習目標となっていた。また月に2-3回、看護師対象の緩和ケアの学習1日コースを開催し、そこに研修医が参加させてもらうこともあった。実際に1日コースを体験した。講義や、ビデオ、実際の症例提示、受講者の体験のディスカッションを行った。最後に、終末期の喪失感を実感させる体験学習があった。それは自分の大切な人、もの、趣味、記憶、能力、信じるものなど5つずつを紙に書き出し、袋に入れた後、自分が進行癌であると告げられ、病状が進むにつれ、先に書き出した紙を袋から6つずつ取り出し、それを破り捨てて失う心境をイメージした、そして最後に残された1つも失ってしまうことを想像する、というものであった。自分の信じていたものを失い、「もう二度ともどりません、見ることもありません」といわれると寂しいが、受講者の中には2回目なのに感極まって泣いてしまう人もいた。このような教育活動がさかんに行われていた。診療においては、患者様はICUの個室や、緩和ケア病棟にて最期まで過ごされる場合だけでなく、地域にある独立型のホスピスに転院する場合や、状態が落ち着き、施設に戻る場合など様々であった。患者様が院内にいる場合、緩和ケアコンサルト、転棟以後も、もとの疾患での主治医は継続的にかかわる形になっていた。このため、最期の立会いは主治医か、夜勤、当直担当医であり、緩和ケア部門のスタッフが夜間に呼び出されることは年に1回くらいだそうだ。また主治医、病棟看護師や、コンサルト担当のスタッフが忙しくゆっくりと患者様やご家族の話を聞けない場合もカウンセラーが対応でき、後に情報共有により誤解をといたり、スタッフ間の調整を行ったりと重要な役割を担っていた。

このように今回見学、研修させていただいたどの部門にも日本と異なる部分があり、それらにこの1ヶ月直接触れることができた。今回の渡米の中で得たものを、今後の研修を続けていく中で何らかの形で活用できればと思う。最後になりましたが、このような貴重な経験をさせていただいた、黒部市民病院、マーサー大学、中央ジョージア医療センター関係者のみなさまのご理解、ご指導に厚く御礼申し上げます。

内科病棟で師長と挨拶

Hash先生のオフィス

内科病棟で研修医と挨拶

内科病棟中のディスカッション

救急センター: 救急医と治療方針のディスカッション

ナースステーションの風景

救急センター:ナースステーションの風景

実習中の学生と集合写真

救急救命士2人のポケベルに指令が入る

緩和ケアでの作業: 挿管チューブ使用中止時の基準作り

Upshaw先生宅で

Gabriel先生宅で

Hash先生宅で

内科、家庭医の研修医と

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